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市内に残る古道

 西東京市内に残るいくつかの古道について、市は、それが短い断片のような道であっても、歴史に刻まれた古道の名残をとどめて後世に伝承するために、古道の名前を現在の道路名にして残している。道路標識を見れば、古くは1300年前から続く歴史の道に思いを馳せることができる。

 

 市内の道路地図を見ると、古道の名前が冠された道路は次の通り見つかった。それぞれの名前の由来を調べてみた。

 

府中道(ふちゅうみち)

市内に残る最も古い道の名前は、東大農場の西側の六角地蔵尊を基点に南の鈴木街道まで延びる府中道であろう。8世紀、奈良時代末期から平安時代に諸国に国分寺・国分尼寺が建立されたが、東国・府中には大国魂神社、武蔵国分寺が建てられた。府中はその時代の関東の中心地であり、その府中に通じる道が府中道と呼ばれた。

 

鎌倉街道と横山道(よこやまみち)

次に六角地蔵尊から西南に延びる鎌倉街道と、東大農場東側の現田無二中のところから東北に延びる横山道である。東大農場ができる前は二つの道は繋がっていたと見られる。これらは鎌倉時代に入って武家の時代になると、その中心、鎌倉への道ができ、そして、各地の武家との間に連絡道ができて行った。八王子の武家、横山党の鎌倉への軍道が横山道であり、途中で鎌倉街道に合流した。

 

深大寺街道

室町時代になって関東管領上杉氏が台頭してくると、滝の城(所沢市)へ繋がる道ができ、その一つが深大寺城(調布市)を結ぶ深大寺街道であった。武蔵野大学の東側、五日市街道との交差点を基点として北へ延びていて、深大寺へ向かう道は消失している。 

 

青梅街道と五日市街道

1603年、江戸幕府が開かれると江戸城の築城工事が進められたが、そのとき、城壁に使用する石灰を青梅の山から運ぶために作られた道が青梅街道である。馬で運ぶため、その馬を交代させる中継地点の一つが田無であった。これにより田無は宿場町として繁栄した。また、五日市の近くの伊奈には石工が多く住んでいて江戸城の築城に関わったが、五日市街道はこのために開かれた道であった。五日市の木炭や周辺の村の農産物を江戸に運ぶ道でもあった。

 

関道(せきみち)と鈴木街道

江戸時代、1653年に玉川兄弟によって玉川上水が開削されると、 そこから各地に分水され新田開発が盛んに行われたが、その新田を開いた名主の名前に由来した道が関道と鈴木街道である。関道は保谷小学校の西側の伏見稲荷通を少し南に向かったところから富士町交差点を抜けて武蔵関まで続いている。ここには名主・井口忠左衛門が開いた関前新田があった。また、小金井から小平にかけて鈴木利左衛門が開いた鈴木新田があったが、その鈴木新田に通じる道が鈴木街道である。鈴木街道は武蔵野大学前を基点にして小平市鈴木町を通って西へ伸びている。

 

〈おまけ〉玉川兄弟って、どんな人?

一説によると、測量などして掘削する技術職ではなく、土木工事に従事する人夫集めが本業のコワ~イ人らしい。いつの時代でもゼネコンには協力会社という求人会社が必要なのだ。

 

所沢街道と富士街道

江戸時代はいろいろな文化が花開き、また、人々は信仰心を篤くした時代であったが、そのような江戸時代の人々の往来に由来して付いた名前が所沢街道と富士街道である。所沢街道は、青梅街道から分岐し、北原交差点を起点にして東村山市秋津町に向かっているが、当時は秩父観音や霊場を巡礼する人々の往来で賑わった道、そして、富士街道は相模・大山の阿夫利神社へ参拝する人々が行き来した道で、大山街道、あるいは、ふじ大山道とも呼ばれ、それが現在の富士街道の名称の由来になっている。